『公共的とは何か』について考える(規制緩和の道のり第10話)

2017年06月24日

セグウェイの公道実験をしていて、改めて気づいたことのひとつは、公道というのは「公共の場所」だということでした。当たり前ですが、そのことを再認識しました。

  日本では、公共の場所は行政(官)が管理しているところ、私有地は個々人が所有しているところと区分けしがちです。
 
 間違いではありませんが、公は、英語でいうと、パブリックです。パブリックは必ずしも行政の管理や運営を意味しません。例えば、イギリスのパブリックスクールは日本でいう公立の学校ではなく私立の学校です。個人が作ったものを他の人にも開放したものもパブリック(公)なのです。
 
 つまり、パブリック(公)というのは、単に行政が管理するとかよりももっと幅広い概念です。
 
 日本でもかつてはまちのことやむらのことを「わたしたちごと」として、みちを作ったり、井戸をほったり、みんなで使うものをみんなで作ったり、お葬式なんかもみんなでやることが一般的だったようです。
 
  近代化や戦後の「個」を重視する経済社会システムが進むにつれて、みんなに共通することは行政が何もかも肩代わりするようになり、公共というと行政のものとなって、住民は徐々に「お客さん化」していったと言われています。
 
 公道や公園は、行政などが決めたルールを守れば、誰もが自由に通行したり、好きなことをできるところです。公園などにはよく「何々してはいけない」という注意書きの看板があります。
 
 行政がルールを決め、住民はそのルールを守ってそこを利用する。それだけだと、そこは人任せの、他人事(ひとごと)の場所というよそよそしい印象が強くなってしまうように思います。本来の「公共的」という言葉にあるはずの、開放的な心地よい響きがそこからは伝わってこない気がするのです。
 
 そこは他者もいて、みんなが共有している場所です。ですので、お客さま的にルールを守って利用するというだけでなく、できれば、もう一歩踏み込んで、そこを他者と共有しているんだという感覚を持ちたいなと思うのです。
 
 他者を尊重し互いに敬意を払いながら、「わたし」と地続きの「わたしたち」の場所としてふるまう、みたいなことが公道というパブリックな場所にふさわしい行為なんだろうと思うのです。
 
 他者の動線を気にせず、最短距離で肩がぶつかりそうになりながら足早につきぬけていったり、
 
 自転車で音楽聴きながら、歩行者のすぐ近くをびゅんと走り抜けていってしまったり、
 
 信号のない横断歩道で待つ歩行者がいても気にせずびゅんと車を走らせてしまうなど、
 
 先を急ぐあまり、ついついやってしまうことがあります。
 
私もよくやっていました。
これまでの人生で、道を歩いていたときにいたであろう他者。それまではあまりその存在を意識していませんでした。
 
 しかし、セグウェイで公道を走ってみて、そこにいる他者をこれまでになく意識するようになりました。セグウェイによって、周囲と「見る・見られる」という関係性が構築されて、他者がクリアに認識されました。
 
 そして、そのとき、「あ、公道ってみんなで共有している場所なんだ」と、当たり前すぎて気づかずにいたことに改めて気づいたのでした。
 
他者と共有している空間ですから、
 
 先を急ぎすぎず、ゆっくりと他者を意識しながら進む。
 
 目が合えば、ニコっと微笑む。
 
 笑顔で挨拶を交わし合う。
 
 できるだけ他者の動線を邪魔しない。
 
 目の前を横切りたい人がいれば「お先にどうぞ」と道を譲る。
 
 というようなことが、公共の場所にはふさわしい行為なんだな、他者へのリスペクトが大事なんだな、そうすることってお互い気持ちよいな、ということを、セグウェイは私に教えてくれたのでした。
 
 まずは身近な道でそうした気持ちをもってみる。小さなことだけど、道のうえでお互いさまとか譲り合いとか、パブリックな場所を他者とシェアしているんだという気持ちを持って行動してみる。
 
 まちのゴミ拾いをすることや、公園の花壇の手入れをしたりすることも、根底では通じるものがあるかもしれません。公共の場所を「わたしたちごと」と思える小さな行動をしてみる。そして、そういう小さな公共への意識がたくさん増えていけば、それはいつの間にかまち全体にも広がっていく。まちのことを行政任せにせず、みんなが「わたしたちごと」として捉えるようになる。
 
 そうなれば、まちはよりよい場所に、より寛容で、より自由で、より住みやすくなっていくのだろうな、これからのまちづくりというのはまちのことを他人事と思わない住民一人一人の意識からなのだろうな、と思う今日この頃なのでした。
(つづく)